姫桜

 この町には、樹齢千年を超える桜がある。
 名は『姫桜』

 噂によると、長く生きたこの桜には魂が宿っており、時折人の姿となっては僕たちの前に現れると言う。

 もし姫桜の人型を見る事が出来たなら――
 『秘めたる恋』が成就するそうだ。

 『姫桜』が立つ丘には恋愛成就を願う女性の姿が良く見られるが、この噂を僕はいつも懐疑的に思う。

 本当に『秘めたる恋』が成就するのかと。

 *

 『姫桜』に行くのは、僕の日課だ。
 人通りの少ない時間帯、日が落ちつつある夕方に、僕はいつも『姫桜』を訪れる。

 今日は、風呂敷に包んだ一段タイプの重箱を持っているため、坂道を上がるのが地味に辛い。
 あがる息を抑えつつ、ゆっくりと坂を上っていくと、『姫桜』が見えてきた。

 しかし今日は先客がいた。

 スーツを着た女性が『姫桜』の前に立っている。
 女性は瞳を閉じ、両手を合わせて何か呟いているようだ。
 残念ながら、この距離では何を言っているかは分からないが、女性が何をしているかは想像できた。

 今まで、山ほど見てきた光景だから。

 女性は僕の姿に気づくと、はっと顔を上げ、恥ずかしそうに走り去ってしまった。
 振り返り、小さくなる女性の後姿を見ていると、後頭部に衝撃が走った。痛さと衝撃の反動で身体が前のめりになり、お重が手から落ちそうになったが何とか堪える。

「なあに? さっきの女の人が気になるの?」

 ふふっと笑いを含んだ女性の声に、僕は一つため息をついた。
 お重を包む風呂敷を強く握ると、振り返って声の主を見る。

 目の前に、着物姿の美しい女性が立っていた。

 細く大きな黒い瞳。
 ほんのり赤く色づく頬と、小さいながらも形の良い唇。
 少し太めの眉毛が力強そうに思えるが、僕はとても似合っていると思う。
 そして目を惹くのが、長くまっすぐな桜色の髪。
 
 風が吹き抜けると、柔らかな花の香が満ち、まるで春がやってきたような温かさに包まれる。

 彼女の名は、姫桜。
 目の前の『姫桜』の人型だ。
 
「何をするんですか、姫桜様。危うくお重を落としてしまうところでしたよ」
「ええっ! それは一大事‼ お重は大丈夫かしら?」
「お重の前に、躓きそうになった僕に謝ってください」
「はいはい、ごめんなさーい」

 彼女は全く気持ちのこもらない謝罪をすると、僕の手からお重を奪って姿を消した。
 相変わらずやることが子どもっぽい。

 『姫桜』の木のもとに行くと、お重を持った姫桜様が立っているのが見えた。

「先ほどの女性は、お礼参りの方ですか?」

 空に向けられていた黒い視線が、僕に移る。

「そう。無事恋が実ったらしいわ。ふふっ、残念だったわね」
「だから、僕がお礼参りの女性を狙っているかのように言わないでくださいよ」
「怒らない、怒らない。うん、あなたには笑顔が一番よ!」
「そうですよね、僕を怒らせるとお供えがなくなりますからね」
「ああ……それだけは……お供えがなくなる事だけは勘弁――っ!」

 姫桜様が、かなり真剣な表情で両手を合わせて僕に謝ってきた。
 それほど、この方にとってお供えとは大切なものならしい。

 僕が姫桜様と出会ったのは、一年ほど前。
 とても驚いたが、彼女が退屈そうにしていると知ってから、こうしてお供えを持って話し相手になっている。

 僕は姫桜様からお重の入った風呂敷を受け取ると、盛り上がっている木の根に座って風呂敷を広げた。

「でも今回の恋愛も、無事成就してよかったですね」
「私の加護があるのだから、成就間違いなしに決まっているわ、ふふん」
「えっ、そうなんですか? 僕はてっきり、成就しそうな恋愛をしている人の前だけに現れているのかと……」
「そんなセコイこと、しないわよ!」

 自作自演、絶対ダメ! と言いながら、今度はおでこにチョップを食らった。
 中々暴力的な方だと思う。

「すみません……嘘です」
「分かればよろしい。で、今日のお供えはなに?」
「桜餅です」
「さくらもちっ! 早く食べましょう!」

 いつもこんな調子だ。
 冗談を言い合い、笑いあい、僕が持ってきたお供えを共に食べる。

 無防備に、唇の端に餡子の欠片を付けながら桜餅を頬張る彼女を見ていると、いつも『姫桜』の噂を思い出す。

 僕はこの噂に懐疑的だ。

 もし本当に、姫桜の人型を見る事が出来たなら、
 『秘めたる恋』が成就するというのなら、

 僕の――

 あなたへの恋も、そろそろ成就していいと思いませんか?

 <完>