私は《悪役令嬢》の役を降りさせて頂きます

 あれ? ここはどこ?

 私は、真っ暗な場所で目を覚ました。
 周囲に視線を向けても、闇に閉ざされた空間には光一つ見ることができず、自分の手があるらしい場所すら何も瞳に映さない。

 異常な状況であるのに、私の心は不思議と落ち着いていた。

(私は今まで一体何をしていたのかしら?)

 記憶を探ろうとすると、ずきりと後頭部が酷く傷んだ気がした。慌てて手を当てたけど、指がさらっとした髪をすくうだけで、痛みを感じさせる元凶は何一つ見つからなかった。

 だけど、さっきまで落ち着いていた気持ちが、ざわつきだす。
 心臓が大きく跳ね上がり、身体中が寒気に包まれる。

 そして――
 全てを思い出した。

 *

 私の名は、アンティローゼ・レファ・エリオンフィール。
 エリオンフィール公爵令嬢であり、トロイメラル王国の王太子エリオット・ディル・ダ・トロイメラル様の婚約者であり、未来の王妃となる者。

 幼い頃、両家の結びつきを強めるために、殿下と婚約が結ばれた。
 厳しい妃教育を受け続け、自由はほとんどなく、来る日も来る日も、エリオンフィール家の名に恥じぬよう、婚約者であるエリオット様の名を穢さぬよう、緊張を強いられる日々を過ごしてきた。

 幼い頃は、何度も父と母に泣きついたものだ。しかし耐え続けることができたのは、エリオット様が私を常に大切にしてくださったからだ。

「私のせいで辛い思いをさせてすまない、聡明なアンティローゼ……私が王太子などでなければ、こんな思いをする必要などなかったのに……」

 殿下は泣きはらした私の顔を見つめながら、申し訳なさそうに詫びる。しかし私の涙を指で拭うと、優しく抱きしめながらそっと耳元で囁くのだ。

「でも許して欲しい。辛い思いをしていると分かっていても君を手放せない身勝手な私を……」
 
 少なくとも私たちの関係は、政略結婚だとされていながらも、互いを愛し愛しみ合う関係になっていたはず――だった。

 私たちが、最後の自由として認められた学園へ入学し、

 ――あの女が転校して来るまでは。

 *

 優しかったエリオット様の怒声が記憶に蘇る。
 そう、あれは確か入学してから2年後に行われた卒業パーティーの時だった。

『アンティローゼ・レファ・エリオンフィール! お前が今まで影で行っていた、ルシア・トニ・キーティング伯爵令嬢への嫌がらせは私が知るものとなっている! お前がそんな浅ましい女だとは思わなかったぞ! お前との婚約を破棄し、ルシアを我が妻として迎える!』

 彼の傍には、怯えた表情で私を見つめるルシアがいた。殿下の服を掴み、小動物のように震えながら潤んだ瞳を向けている。

 私たちの関係は、学園入学後も変わらなかった。
 しかしルシアが転校してきてから、状況は一変する。

 あの女はいつの間にかエリオット様に近づき、彼の心を奪ってしまったのだ。

 ルシアがエリオット様と会う時間が増えるにつれて、私と会う時間が減った。
 ルシアに向けられるエリオット様の笑顔が増えるにつれて、私に向けられる笑顔が減った。

 私から殿下に声をかけると、あからさまに不機嫌な態度をとられることが多くなった。

 元々は政略結婚。
 愛がない夫婦など、貴族社会にはごまんといる。

 しかし諦めるには、私のエリオット様への想いは深くなりすぎていた。

 深くなりすぎた想いは、ルシアへの嫉妬へと変わった。

 一度、彼女に警告したことがある。
 エリオット様は私の婚約者だと。彼に近づき色目を使うのは、伯爵令嬢としていかがなものかと。

 しかしルシアは、笑顔でこう言った。

「しかしエリオット様が会いたいと仰ってくださいますから。王太子の言葉に誰が逆らえますか?」

と、とても嬉しそうな表情で。
 どう考えても強要されているようには思えない笑顔で。

 その日から、私はルシアへの嫌がらせを始めた。

 たかが伯爵令嬢に、公爵令嬢である私が嫉妬に燃えるなど愚かしい。今思えば、私が正式な婚約者なのだ。ドンと構えていれば良かったのに、それができなかったということは、私もその程度の器でしかなかったということ。

 だけど、今まで私に向けられていた笑顔が、彼女に注がれていると思うと、正気を保つことができなかった。

 ルシアへの嫌がらせは、日を追うごとに過激になっていった。

 もちろん、エリオット様の寵愛を一身に受けている彼女が、私から受けている嫌がらせを彼に伝えないわけがない。

 そして卒業パーティーの際、私は皆の前でルシアに行っていた愚かな行為を公表され、エリオット様から婚約破棄をされたのだ。
 
 ルシアに嫌がらせをしていたのは本当だったから、言い逃れなどできなかった。
 あの場にいた皆が、私に対し冷たい視線を、ルシアに同情するかのような視線を向けていたのを思い出す。

 誰一人、味方はいなかった。
 
 しかし私は愚かしくも、公爵令嬢らしからぬ醜態を晒したのだ。
 殿下の足元に額をこすり付け、涙ながらに許しを請うと、エリオット様への愛を口にする。しかし目を背けられたため、今度は見っともなく服にしがみついた。

 エリオット様はまるで汚物を見るかのような冷たい視線を私に向け、強い力で振り払った。
 その拍子に私は後ろに倒れ、近くにあった机の角で頭を――

 そこからは何も覚えていない。

(死んだ……のかしら? ということは、ここは死後の世界?)

 思い出した記憶はショックではあったが、冷静に受け入れているのは、死んで自分を客観視できているからだろうか。
 そう思った時、

『また戻って来たね、アンティローゼ』
「だ、誰⁉」

 突然降って来た男性の声に、私は驚いて周囲を見回した。もちろん闇の世界に変化はなく、声の主を見つけることはできない。

 しかし、向こうには私の姿が見えているのだろう。耳の奥をくすぐるような笑い声が空間に響き渡った。

『あははっ、安心して、俺は君の味方だよ。それにしても今回も大変だったね。机の角に頭をぶつけて死ぬなんて。ま、前回あった、ルシアに飛びかかってエリオットに切り捨てられる結末よりかは、まだマシかな?』

「……え? 切り捨てられる……結末?」

 男の言っている意味が分からなかった。
 自分の死を落ち着いた気持ちで受け入れていたのに、一気に脳内が疑問符で一杯になった。

 彼が呆れ声をあげる。

「前回死んだとき、ちゃんと説明したんだけど忘れちゃったのか? 君は恋愛小説の登場人物なんだよ? この世界は全て物語の世界ってわけ」

 声の主は全てを説明してくれた。

 この世界は《全ての愛を君に》という物語なのだという。
 登場人物である私たちが決して気づくことはないのだが、私たちの生活を覗く、いや読む外の者たち――《読者》という存在がたくさんいるのだという。彼らの期待や希望が、私たち登場人物に影響を与えるのだ。

 そして私は今、《悪役令嬢》という女性主人公を虐める立場にある。
 お相手となる男性と女性主人公の邪魔をする、いわば当て馬的な役であり、最後には溜まりに溜まった《読者》からの憎しみや苛立ちを、断罪という形で解放する役目があるのだという。

 始めは信じられなかったが、声の主の説明に触発されたのか、今まで何度も繰り返され続けて来た断罪のシーンが脳内に蘇ったことで、受け入れざるを得なくなった。

 時には処刑され、時には殿下の手によって殺され。
 追放されて野垂れ死に、娼館に売られて死ぬまで男たちの慰み者にされ。

 どれもこれも酷い結末だった。
 声の主が、頭を打って死んだ結末がマシだと言った理由が理解できた。

「……酷すぎる、こ、こんなことって……」
 
 私は顔を手で覆った。
 
 確かに私の行動は《読者》にとって、娯楽のようなものかもしれない。

 しかし、私は本気だった。

 全てエリオット様を愛し取り返したいと思っていたこそ、起こした行動だったはずだった。
 それなのに……

「分かるよ、アンティローゼ。俺も酷すぎると思う。愛する人を奪われた被害者である君が何故、《悪役令嬢》の役をしなければならないんだろうってね」
 
 私の気持ちに共感するように、男の声がとても優しくなった。

「しかし残念ながら《読者》には主人公の一面しか読むことしかできない。誰も《悪役令嬢》側の気持ちや事情など知らないんだ。今、君が悪役令嬢なのは、《読者》が《君》を《悪役令嬢》だと思っているから。彼らが君に《悪役令嬢》の役目を望み、期待する限り、繰り返される悲劇は終わらない。大切な者を奪われ、死ぬ結末は変わらないんだ」

「ど、どうすれば、いいの? どうすれば……」

「……良く思い出して。君が今までルシアにやってきたことを。客観的に見て許される行為だと思う?」

 私は記憶を探った。

 ルシアには、嫉妬心からありとあらゆる嫌がらせをした。

 持ち物を隠すなんて日常茶飯事。
 悪い噂を流したり、階段から突き落とそうとしたり、一度は、ならず者を雇って襲わせようともした。

 ……普通に考えても、常軌を逸している。
 私から見ても、完全に悪役の行動だった。

 同時に自身の幼さ、愚かさが恥ずかしくて堪らなくなった。
 エリオット様だって、私がこんなことをしていたと知ったら、ルシアに心を奪われているとか関係なく、嫌悪を露わにされ、私との関係を見直されることだろう。

 私の心境を察したのか、声の主が苦笑いをした、ように思えた。

「そういうことだよ。《読者》は、君が愛深き故に行った行為に同情しなかった。むしろ悪役である君への憎しみを強め、最後断罪されてスッキリし、《悪役令嬢》に虐げられたルシアの幸せを見たいと思った。だから君は《読者》の希望に知らず知らずのうちに応え、《悪役令嬢》として行動し、破滅に至ったというわけだ」

 彼の言いたいことは良く分かった。
 私は、自分で自分の首を絞めていたわけだ。

 その時、身体が急に何かに引き伸ばされるような感覚が襲った。
 だけど、この感覚は何度も経験している。

 新たな物語が始まる際に、起こる現象だったはず。
 
「ああ、時間が来たようだね。君はまた学園入学時に戻され、新たな物語が始まる。でも、悲劇を回避するために君がすべきことがなにか、もう分かっているよね?」
「……ええ。私はできる限り《読者》の憎しみを集めないようにしなければならない。《悪役令嬢》として期待されるような行動をしてはならない。そうね?」
「ああ、その通りだ。聡明なアンティローゼ」

 私の名を呼ぶ声は、優しさに満ちていた。
 彼の言葉に、どこか懐かしさを覚える。昔よく感じていた、だけど久しく感じていなかった懐かしさが、胸の奥を締め付けた。

 しかし理由を知る前に、彼の言葉が思考を遮った。

「俺の大好きだった《全ての愛を君に》の世界を正しい結末に……君を――に――」

 声が遠く、はっきりと聞こえなくなる。
 しかし最後に告げた彼の声は、どこか泣きそうだった。

 私の意識はここで途切れてしまった。

 *

 気が付いたら、私は鏡台の前に座っていた。
 私の後ろには誰かがいて、長い金色の髪をくしで梳かしている。
 
「今日は、アンティローゼ様の入学式ですわね。殿下と送られる学園生活は、きっと楽しいものになるでしょう」

 心の底から楽しそうに言いながら私の髪を整える侍女。
 どうやら、

(……戻ってきたのね、入学式の日に)

 不可思議な現象を、自然と受け入れていた。
 だって、もう何度も繰り返してきた光景だったから。

 入学式の時、こうやって楽しそうに髪を梳かしてくれた侍女が、次第に暗く沈んだ声へと変わり、最後は無言で身支度を手伝ってくれていたのを思い出す。

 夢であればいいと、今でも思う。
 私の幻想であれば、どれだけ良かったことか。

 お出かけのご用意をします、と告げて侍女が部屋を出ると、私一人になった。綺麗に整えられた鏡の中の自分を見つめながら、今まで繰り返してきた悲劇を、暗闇の中で私に生き残る助言をくれた彼の声を思い出す。

(この世界は物語。そして私は……《悪役令嬢》)

 立ち上がると、窓から外を見た。
 今この瞬間も《読者》という存在が、私を見ているのだろうか。

 いや、主人公であるルシアの物語を追っているのかもしれない。
 でも、どちらでもいい。

「……もう、あなたたちの思惑には乗らない。私は、《悪役令嬢》の役を降りさせて頂くわ」

 《読者》という神に等しい存在を思い、私は窓枠を掴む手に力を入れた。

 *

 結局今までの物語通り、ルシアはエリオット様の心を奪った。

 二人が秘密の逢瀬を重ねているのを知りつつも、私は暴走しそうになる嫉妬心を押さえつつ、できる限り色々な者たちのと交流を計った。
 
 私は未来の王妃。
 民を思い、国を支える者なのだ。

 その想いが、自然と学園の秩序を保つ役目を担うことになった。立場関係なく公平に接するようになったことで、皆から信頼を得ることができ、親しげに話しかけてくれる者も多くなった。

 特に、親友と呼べる友人ができたことが大きい。

 今までは殿下との問題を一人で抱え込むしかできなかったが、彼女たちに相談することで気がまぎれた。それだけで、酷い嫉妬心を押さえることができたのだ。

 特に、男爵令嬢であるミシェル・デ・ドルレアックに至っては、

「本当に殿下は心変わりしただけかしら? ……ちょっと気になることがあるから調べてみるわ。何か分かったら知らせるわね?」

と独自で調査を申し出てくれた。
 もちろん、自身が危うい立場にならないよう気を付けるよう、お願いはしたけど。

 ルシアには一度、警告をした。
 もちろん脅しにならないように、細心の注意を払い、言葉も選んで。

「ルシア。エリオット様と仲良くしてくださるのはとても嬉しいわ。だけど、彼も私という婚約者がある身です。世間の目から見ると、エリオット様に対してもあなたに対しても、良からぬことを考える者も出てくるかもしれません。ですからせめて、エリオット様とお会いする時は、私も同席させて頂けないかしら?」

 しかしルシアは、今までにない反応を見せた。
 怯えた表情が印象的だった彼女の口元が、笑いで歪んだ。

「あら、アンティローゼ様、嫉妬は醜いですわよ? でもまあ仕方ありませんわね? 殿下の心はもはや私のものですから。エリオット様に捨てられるのを、指をくわえて見ていらっしゃるといいですわ」

 勝ち誇った様子で見せられた、ルシアの本性。
 小動物のように震えながら、私を見つめていた彼女からは想像できないような、堂々とした宣戦布告だった。

 正直、呆れてしまった。
 公爵令嬢たる私にそのような暴言を吐くなど、よほど世間知らずなのか、

(それともエリオット様が私を捨てるのを確信しているから?)

 何気なく思った考えだったが、全身の肌が粟立った。
 
 私に対して強気に出られる理由が、ルシアにはあるのではないかと――

 *

 卒業パーティーの日。
 殿下の怒声がホールに響き渡った。

「アンティローゼ・レファ・エリオンフィール! お前が今まで影で行っていた、ルシア・トニ・キーティング伯爵令嬢への嫌がらせは私が知るものとなっている! お前がそんな浅ましい女だとは思わなかったぞ! お前との婚約を破棄し、ルシアを我が妻として迎える!」

 殿下の言葉は、何ひとつ変わっていなかった。
 彼の服にしがみつき、潤んだ瞳で私を見つめるルシアの姿も。

 婚約破棄宣言はなされた。
 今回の物語の中で私は、ルシアに対し何ひとつ嫌がらせはしていない。むしろ、極力二人のことは放っておいたくらいだ。

 何一つ、やましいことはしていないのに、婚約破棄宣言が起こった。
 ということは、

「殿下。恐れながら、何をもってルシア伯爵令嬢に私が嫌がらせをしたと仰っているのでしょうか?」

 ルシアから何かを吹き込まれたに決まっている。
 確信を胸に私が尋ねると、殿下は唾を飛ばしながらさらに強い口調で仰った。

「ルシアからお前の悪事を全てを聞いた!」
「聞いた? 何一つ、事実確認もせずに、ルシアの言葉を鵜呑みにされたということでしょうか?」
「鵜呑み? ルシアが私に嘘をつくわけがないだろうっ! お前と違って、ルシアは正直で純粋な女性だ!」

 殿下は、私の言葉に耳を貸さなかった。仕方なく、私はルシアに視線を向ける。

「では、私に教えて頂けますでしょうか? ルシア、あなたは私からどのような嫌がらせを受けたのですか?」
「わ、私を階段から突き落とそうとなさったじゃないですかっ!」
「それはいつのこと?」

 ルシアが突き落とされたという日にちを言う。しかし、

「あれ? その日は、私の自宅で一緒にお茶をなさっていましたよね、アンティローゼ様」

 私と親しくしてくれている別の伯爵令嬢が首をかしげながら口を開いた。それを聞いた殿下が、彼女の傍に大股で近づくと、頭を振り落とさんばかりの強い力で両肩をゆする。伯爵令嬢の髪飾りが、殿下の揺さぶりによって落ち、乾いた音が響き渡った。

 見かねた周囲の者たちが殿下を取り押さえる。

「で、殿下、おやめください!」
「ほ、本当なのか⁉ アンティローゼと共謀しているのではないだろうな!」
「恐れ多くも、そのようなことはございません! 必要とあらば、我が父と母を証人にいたしますわ!」

 殿下からの手を逃れ、苦しそうに顔を歪ませながら、伯爵令嬢が言い放つ。私が彼女を抱きしめ、落ちた髪飾りを頭につけると、恐怖で固まっていた気持ちが緩んだのか、ワッと声をあげて泣き出してしまった。

 ルシアが口を開けば開くほど、

「その時は、アンティローゼ様は私と一緒にいました」
「あの時は、俺の将来についてアンティローゼ様にご相談させて頂いてました」
「確か、アンティローゼ様が私たちの仕事を手伝ってくださってた時じゃなかったかしら?」

と、皆が彼女の言葉を否定する。
 皆がルシアを否定するたびに、彼女に向けられる視線が同情から疑いへと変わっていく。

 ルシアは顔面を蒼白にしながら、本当の恐怖で震えていた。
 殿下ですら、彼女に疑いの目を向けているのだから当たり前だろう。

 機は熟した、とばかりに私は一歩前に出た。

「ということで、私は何一つ、ルシアに嫌がらせなどしておりません。ここにいる者たちの証言を聞いて頂ければご理解頂けたと思いますが、まだ何か仰りたいことがおありですか?」
「そ、そんな……ルシアが私に嘘をつくなど、そんなこと――」
「いい加減、目をお覚ましなさい、エリオット・ディル・ダ・トロイメラルっ‼」

 私の鋭くも厳しい声色に、殿下の肩が大きく震えた。
 
 背筋を伸ばす。
 毅然とした態度で、婚約者を見つめる。

 私は、アンティローゼ・レファ・エリオンフィール。
 エリオット・ディル・ダ・トロイメラルの正式な婚約者。

 《悪役令嬢》などではない!

(アンティローゼ、今こそ取り返せ。本当の自分の役割を――)

 殿下の黒い瞳を見つめた瞬間、どこからかあの暗闇の声が聞こえた気がした。

「では今度は私からお聞きいたします。殿下。将来、国を背負ってたつ御方が女にうつつを抜かし、挙句の果てに女の嘘を鵜呑みにして、このような場で己の無能を晒すなど……これら醜態を見た者たちが、あなたを信頼し、ついて来るとお思いか⁉」

「そ、それは……」

 殿下が言い淀んでいる。
 しかし私は彼の言葉を待たず、エリオット様を盾にするように隠れているルシアに鋭い視線を向けた。

「そしてルシア。あなたが殿下の寵愛を得たのをいいことに、好き勝手振舞っていたと聞いています。権力を笠に身勝手にふるまう者が、仮に殿下が御認めになっても、皆があなたを王妃として認めてくれると思っているのですか? 将来の王妃としてこの国を支えていけると思いますか⁉」

 私たちを取り囲む者たちが、大きく頷いている。
 皆が、私の味方だった。

 私は、両手を広げて周囲を見回した。そして視線を上に向けながら言葉を続ける。
 
 そう。
 この瞬間なら、主人公であるルシアの一面だけを追っている《読者》に、私の言葉が届いているはず。

 この場にいる皆が、殿下とルシアの行動をおかしいと思っているのだ。《読者》にそれが伝わらないわけがない。

「殿下、私と婚約破棄をなさっても結構です。元々は、国益のために結ばれた縁談。ルシアと結ばれることで更なる国の発展が望めるなら、私は喜んで身を引きましょう。しかし、この状況が本当に国にとって最善といえるのでしょうか? 私にはそうは思えません。恐らくここにいる皆がそう思っているでしょう。本当にルシアと結ばれたいのであれば、皆があなたたち二人を認める筋の通った方法をとるべきでした。こんな方法、ただワガママを無理やり押し通そうとしているようにしか思えません!」

「黙れ、アンティローゼっ‼ 国などもうどうでもいい! 私はルシアと結ばれさえすればそれでいいんだっ‼」

 殿下の瞳が怪しく光った。
 どう考えても、正気を保った瞳ではなかった。いつも優しく輝いていた黒い瞳から正気の光が失せ、何かに操られているかのように虚ろになっている。

 ようやく私は理解した。
 殿下は心変わりしたのではない。

 何かに――いや、ルシアによって操られているのではないかと。

 殿下の手がゆっくりと、腰に差している剣に触れる。

 別の物語で、彼に切られた記憶が蘇り私は身体を硬直させた。
 しかし、ここで引くわけにはいかなかった。

 操られていると分かったのなら尚更。

「殿下、どうか目を覚ましてくださいっ! 国と民を第一に考えていた聡明でお優しい殿下に、どうかお戻りくださいっ‼ あなたが正気に戻るなら、私は喜んでこの命を捧げましょうっ‼」

 両手を広げ、振り下ろされる剣先を身に受けようとした時、殿下の手が止まった。
 剣を上に掲げたまま、両腕を震わせながら、私を見つめている。

 黒い瞳に光が戻り、目尻から涙が溢れていた。

「あ、あんてぃ……ろーぜ……」
「え、エリオット……様?」

 殿下の名を呼んだ瞬間、

「エリオット様っ‼」

 ルシアの金切り声が響きわたった。
 殿下の瞳から光がなくなった。剣を掲げる両手から震えが止まり、光のない瞳が私を捉える。

(もう……駄目だ)

 今回も失敗だった。
 でも次はあるのだろうか?

 分からなかった。
 ただ心に浮かんだのは、

(エリオット様、ごめんなさい……あなたを救うことができなかった……でも、あなたの心が変わったわけではなかったと知れただけでも良かったです。私はずっと、あなたを愛しています)

 どれだけ打ち消そうとしても消えなかった、エリオット様への想い。
 政略結婚でも、ともに愛を育んでいこうと仰ってくださった、優しい微笑み。

 死を受け入れ、微笑んだ時、

「殿下、ご無礼をどうかお許しくださいっ‼」

 そう叫ぶ親友ミシェルの声が響き渡ったかと思うと、眩い光がホール一面を一杯にした。
 目の前が真っ白になり、そのまま私は気を失った。

 *

 目覚めると、私はベッドの上にいた。
 聞き慣れた声が、私の意識を覚醒させる。 

「目覚めたか? アンティローゼ……」
「で……でんか……?」

 そこには、ルシアに心を奪われる前にいつも見せてくれた優しい笑顔を浮かべるエリオット様の姿があった。
 反射的に身体を起こそうとすると、目の前がクルクルと回る。ふらついた身体を、殿下の腕がそっと支えてくださった。

 ここ2年間、ずっと感じることのなかった温かさに、涙が自然と滲み出した。
 
「……アンティローゼ、すまなかった。私は、ずっと君を傷つけていたようだ」
「なにが……あったのですか? 私が倒れた後、何があったのでしょうか?」

 殿下は話してくださった。

 殿下は、ルシアに魅了の魔法をかけられていたらしい。突然私からはなれ、彼女に心を奪われたのは、そのせいだった。
 しかし私を剣で切り捨てようとした時、ミシェルがドルレアック家に伝わる解呪の魔石を発動させ、ルシアの魅了を解いたのだ。
 
 私も知らなかったが、ドルレアック家は魔術師の祖先もった代々魔法や魔術などに精通した家系らしい。ミシェル自身も、不可思議な現象が見える特殊な瞳をもっているらしく、殿下がルシアに心変わりした頃から、彼が纏う雰囲気が変わったので気になっていたそうだ。

 そして私と親しくなったことで本格的に調査してくれ、解呪に至ったのだという。

「そう……だったのですね」
「ドルレアック男爵令嬢の言うことには、ルシアの魔法はとても強力で、解呪できるかは一か八かの賭けだったらしい。しかし君が突き付けた言葉が、私の心に影響を与えたことでルシアの魔法が一時的に薄れ、解呪が可能になったそうだ」

 私の言葉が殿下に届いていた。
 それだけで心が救われた気になった。

 しかし殿下の表情が曇る。

「言い訳はしない。愚かにも魔法にかかり君を傷つけた私が婚約者と名乗るなど、おこがましいにもほどがある。君には、私ではなくもっとふさわしい男性がいるだろう。これからエリオンフィール家に謝罪をし、君との婚約をなかったことにしようと思う。今まで……本当にすまなかった」

「な、何を仰っているのですかっ‼」

 頭を下げる殿下の両肩を強く握った。

「確かに、とても辛い2年間でした。ですが全ては魔法のせいではありませんか! 殿下は被害者なのです! だから、私のことは気に病まないでください。もしあなたの気持ちが今でも変わっていなければ……私を、あなたの婚約者のままでいさせて頂けないでしょうか?」

「本当にいいのか、こんな私で……君はあの時、国益のために結ばれた縁談だと言っていただろう?」

「そうですね。でもそれ以上に、私はあなたを愛しているのです。あの時、あなたのためなら命を捨ててもいいと思うほどに……」

 エリオット様の黒い瞳が見開かれ、薄く開いた唇から息を飲む音が聞こえた。

 次の瞬間、上半身が温もりに包まれる。
 私の頰に、熱い雫が伝っていくのを感じる。

 少し掠れた殿下の声が、耳の奥を震わせた。

「私もだ。一目会った時から、君に恋をしていた。ともに生きて行く相手として、深く愛したいと思っていた。もしまた私が、愚かにも魔法にかかるようなことがあれば、怒って私を止めてくれるか? 聡明なアンティローゼ……」

「もちろんです。これからも傍にいてあなたを守ります、エリオット様」

 私たちは強く抱きしめあった。
 しばらくそのまま、互いの体温を、息遣いを、鼓動を感じ合う。

 私はエリオット様の身体から少し離れると、黒い瞳の奥にある光を見つめながら言った。

「……あなただったのですね、あの闇の世界で私に生き残る術を教えてくださった声の主は」
 
 *

「……はは、バレていたか」
 
 殿下の口調が軽くなった。
 声は殿下と一緒だが、纏う雰囲気が一変する。

 整えられた私と同じ、金色の髪をかきあげると、諦めたようにふうっと大きく息を吐いた。

「ずっと隠しておきたかったんだけど、さすが聡明なアンティローゼだ」
「それですよ。『聡明なアンティローゼ』は、エリオット様しか呼ばれませんから」
「ああ、そうだったっけ。エリオットであった時期が長かったからな、ついボロが出てしまったな」
「全てご説明願いますか? あなたは一体……」

 殿下――いや、闇の声の主は、どかっと勢いよく椅子に座りなおすと足を組んだ。

「俺は、《全ての愛を君に》の《読者》の一人だ。ある日事故に遭って死に、エリオット・ディル・ダ・トロイメラルに転生したんだ」
「転生? つまりエリオット様の前世、ということでしょうか?」
「ああそうだ。ルシアの魔法にかかったことがきっかけで前世の記憶が蘇ったんだ」

 彼は苦笑いをしながら言葉を続けた。

「いやぁ、驚いたよ。だけど生前この物語が大好きだったから、エリオットとして生きてもいいかと思ってた。しかし、この世界は俺の知っている物語と同じではなかったんだ」
「そう……なのですか?」
「少なくとも、君が嫉妬に狂ってルシアをいびりたおす、なんて話ではなかったな」

 だから何かがおかしいと思った、と彼は語った。
 大好きな物語が改編されている。それが許せず、正しい結末にしたかったのだと。

「しかし俺自身、ルシアに魔法をかけられて何もできないし、歯がゆかったよ。俺の好きなキャラであるアンティローゼが《悪役令嬢》として断罪されるのを目の前で見続けるのは。それが執念になったからかな? 何度目かの物語が終わったとき、次の物語が始まるまで待機していた君の魂に話しかけることができるようになったんだ」
「そして私にこの世界の真実を、生き残る術を教えてくださったのですね? でも、ルシアに魔法をかけられたことをご存じだったのなら、教えてくださっても良かったのでは?」
「教えても良かったけど、解呪方法まで分からなかったし。皆の信頼がない状態で伝えたところで、君の言い分が皆に信じてもらえるとは思えなくてね」

 彼は肩をすくめた。

「それに君がどれだけ《読者》に《悪役令嬢》ではないと伝えても、ルシアを実際虐めていたら伝わらない。だからアンティローゼが本当の《悪役令嬢》でないことを行動で言動で示し、《読者》の共感を得るしか、君の本来の役割を取り戻す方法はなかったんだ」
「本当の役割? 私は《悪役令嬢》なのでは?」
「まさか。《全ての愛を君に》の本当の主人公は、アンティローゼ・レファ・エリオンフィール、君なんだよ。この世界は、君とエリオットが出会い、結ばれ、幸せになるために作られた物語だ」
 
 彼は小さく笑いながら首を横に振ると、美しい黒い瞳で真っすぐ私を貫いた。

「君はあの時、自分の力で奪われていた物語の主人公役を取り戻したんだよ」
 *

 ジメジメと湿度がこもる地下牢に、あたし――ルシア・トニ・キーティングはいた。
 
(上では、断罪の準備が進んでいるのかな)

 壁を這うトカゲを見つめながら思う。髪飾りを投げつけると、トカゲに当たったようだが、残っていたのは潰れた死体ではなく、尻尾だけだった。
 どうやら逃れるために、尻尾を切り落として逃げたらしい。

 まだぴくぴく動くそれを見つめながら、自身の行く末を思い浮かべる。
 きっとあたしも、こんな感じで首を刎ねられるんだろう。

 ――《全ての愛を君に》の本筋通り。

 その時、カツンという足音が地下牢に響き渡った。
 牢の前にいた見張りが、慌ててやって来た人物たちに駆け寄り、何かを話している。話がついたのか、見張りの代わりに、見知った二人が姿を現した。

「……何しに来たの? お二人さん」

 あたしは憎しみを込めてアンティローゼとエリオットを見つめた。

 しかし睨まれても、憎しみをぶつけられても、アンティローゼは毅然としていた。 

 美しい。
 やっぱり《本物の主人公》は違う。

 あたしなんかよりも、ずっと強くて輝いていて――

 アンティローゼの艶のある唇が動いた。

「全てを聞いたわ、ルシア。あなたが……この物語の《本物の悪役令嬢》役だったってことを……」

 あたしは反射的に目を反らした。
 転生し、自分が《悪役令嬢》だと知ったときの絶望感が胸の奥に蘇ったからだ。

 しかし弱いあたしを見られたくなかった。口元に笑みを作ると、彼女の言葉を鼻で笑う。

「そうよ、だから何? ほら、良かったわね、本当の《悪役令嬢》はこうして捕まり、物語は正しい道筋へと向かっているわ」
「ルシア……」
「そんな目であたしを見ないでっ‼ 前世の記憶が蘇って、ただでさえ戸惑っていたのに、この世界で断罪されて殺される《悪役令嬢》だと知った時の絶望が、あなたには分かる⁉」

 アンティローゼが口を開こうとした時、エリオットが彼女を庇うように前に出た。

「何故アンティローゼを悪役令嬢役にした? 《悪役令嬢》の破滅フラグを回避する方法はいくらでもあったんじゃないのか?」
「破滅フラグ……ああ、エリオット、あんたも転生者だったわけね」

 少なくとも、この世界に《フラグ》なんて発言する人間はいない。

 全てが繋がった気がした。
 いつも嫉妬に狂い勝手に破滅していくアンティローゼが、今回は何故か違った行動をしていたから。きっとこいつが入れ知恵した結果なのだろう。

「それなら話は早いわ。確かに色々な方法を試したけど、結局結末は同じだった。断罪されて死ぬ。だから悟ったの。《読者》が《悪役令嬢》を求める限り、私は死から逃れられないと。《読者》が《悪役令嬢》に期待することはただ一つ、破滅だけだから!」
「だからアンティローゼから主役を奪い、自分の役割を彼女に押し付けたわけか」
「そうよ! あたしは生きたかっただけなのに! あんたたちをハッピーエンドに導くための道具として、《読者》からのヘイトを集め、溜まりに溜まったストレスを発散させるキャラクターとして殺されるあたしの気持ちが、お前たちに分かるものかっ‼」
「分かるわっ‼」

 突然、黙って聞いていたアンティローゼが言葉を遮った。

 エリオットを押しのけると、座り込んでいるあたしの前に座り込み、目線を同じにした。綺麗なドレスの裾が汚れるのも関わらず、埃をかぶっている牢の鉄格子に縋りつくようにこちらに接近する。

 彼女の青い瞳が、辛そうに細められた。
 
「私も《悪役令嬢》だったから分かる。それを知ったときの絶望が。あなたは生きたかっただけ。私はエリオット様を取り返したかっただけ。なのに全てが上手くいかず、挙句の果てには凄惨な死を遂げるのだから、絶望しない人間なんていないわ」

 あたしは耐えきれず、アンティローゼから視線を外した。
 だって、彼女に《悪役令嬢》を押し付け、無残な死を何度も経験させたのは、あたしなのだから。

 でもアンティローゼの言葉には、あたしに対する憎しみはなかった。
 語られる言葉に熱が増す。

「絶対に間違っているわ、悪役がいなければならない物語なんて! それなら私たちで作りましょう。《悪役令嬢》のいない、新たな物語を」
「そ、そんなことできるわけがないわっ! 《読者》は常に《悪役令嬢》を求めている! そいつが断罪されるのを楽しみにしているのよ⁉ 求められる限り、私はその役割から逃れられない!」
「いいえ、誰一人悪役がいない大円満な物語を求めている《読者》だっているはずよ! 物語だからって、悪役が必要なわけじゃない!」

 アンティローゼが手を差し伸べた。

「《読者》に伝えましょう。この世界に《悪役令嬢》は必要ないと。《読者》が私たちに影響を与えるなら、その逆だってできるはずだわ! 本筋では確かあなたは、殿下を貶めた罪で処刑されるのよね?」
「ええ、そうよ……そしてお邪魔虫がいなくなって世界は平和、あんたたちは無事結婚してめでたしめでたしってわけ」
「なら、そこから変えましょう。殿下、どうかルシアをお許し頂けないでしょうか?」
「なっ⁉」

 思わず声をあげてしまった。しかしアンティローゼの表情は真剣だ。
 エリオットは、口元に微笑みを浮かべると、小さく頷く。

「まんまとその女の術にハマり、君を傷つけた俺に決定権はないよ。アンティローゼがいいなら、俺も許そう」
「ありがとうございます、殿下」

 彼に対し深く頭を下げると、牢の隙間からアンティローゼの白い手が入って来た。呆然と成り行きを見守っているあたしの手が温かさで包まれる。

「あなたは先ほど仰いましたね? 色々と破滅を回避しようとしたけれど無理だったと。でもこの方法は試したのかしら?」

 顔を上げると、慈愛に満ちた微笑みを浮かべるアンティローゼの姿があった。

「私はあなたを許します。だから今度は正しい方法で幸せになりましょう。誰一人、悪役のいない幸せな物語を一緒に作って? 私と友達になって頂けますか?」

 本筋のアンティローゼは、美しく、気高く、真っすぐだった。

 そんな彼女を、生前のあたしは大好きだった。
 彼女のようになりたいと思っていた。

 あたしは握られた手を見つめた。次第に視界が揺らぎ、温かいものが頬を伝う。

「ご、ごめんなさい……ほんとうは、あなたがだいすきだった……強くて気高くて真っすぐで……そんなあなたを歪めたあたしを……どうか、ゆるして……」

 今までずっと蓋してきた後悔と罪悪感が溢れ出した。
 それらは自然と謝罪の言葉となって唇からとめどなく零れ落ちる。
 
(きっと作れるはず……彼女と一緒ならきっと……)

 そう思いながら、あたしは肩を震わせて何度も何度も頷いた。

 *

 その後、ルシアの行動は、彼女がもっていた魔法の宝飾品によって、無自覚になされたものだと発表された。殿下のご慈悲、さらに皆の面前でルシアが私に対し、詫びを申し出たことで、全てが許された。
 もちろん、色んな声があった。

 しかし私が彼女と親しくすることで、皆は口をつぐみ、そのうち忘れ去られていった。
 
 あれから数年後――

「あ、お母さま」
「レガシー、またその本を読んでいるの?」
「うん! すっごく好きだから!」

 娘の頭を撫でながら、彼女の読む本を覗き込んだ。

 タイトルは《全ての愛を君に》
 私がルシアと殿下――いえ陛下の話を聞きながら書き綴った、この世界の物語だ。

 しかし内容は書き換えている。
 私の書き綴ったこの物語に《悪役令嬢》はいない。

 私はエリオット様と結婚し、女の子を出産した。子もすくすく育ち、私たちが書いた本を読めるまでになるほど、大きく成長している。

 跡継ぎである第二子を抱きながら、私は微笑んだ。

 レガシーを見つめる視線は、私一つだけではなかった。

「ほんと、レガシーはその本好きね? どんなところが好きなの?」

 ともにお茶をしていたルシアが微笑みながら尋ねると、レガシーの無垢な瞳がぱっと明るくなった。

「だって、皆優しいから! 悪い人、誰もいないんだもん!」
「そっかー、そうだよね?」

 レガシーの言葉に、ルシアが嬉しそうに瞳を細めると、大きくなった自分のお腹を愛おしそうに撫でた。

 物語の主人公である私と、《悪役令嬢》であったルシアの関係は良好だ。
 ルシアも結婚し、もう少ししたら第一子が生まれる予定で幸せの絶頂にいる。

 その時、エリオット様がやってこられた。休憩に来られたらしい。
 私に近づくと、そっと頬に口づけをされた。

「ルシア、来ていたのか。体調の方はどうだ?」
「ありがとうございます、陛下。母子ともに順調でございます」
「そうか、それなら良かった」

 ルシアと彼女のお腹に視線を向けると、エリオット様は微笑まれた。そしてレガシーを抱き上げると、高く抱っこする。

 娘の笑い声が、部屋に明るく響き渡った。
 
 私は、窓から空を見上げた。

(今でも、私たちの物語を《読者》が見ているのかしら?)

 不意にもたげて来た不安を振り落とした。

 あの日から、私たちは《悪役令嬢》らしい行動をしていないし、そういう物語の流れにもなっていない。
 それが《読者》がこの世界に《悪役令嬢》を求めていない何よりの証拠だ。

(《読者》も、この世界を気に入ってくださっているはず。だから……大丈夫)

 そう。
 気に入って見守っているはずだ。

 《悪役令嬢》のいない、
 いや誰一人悪役のいない、この優しい物語を――

 <完>