大魔女の遺言 ~いがみ合うライバル商会の一人息子と、子作りしなければ出られない部屋に閉じ込められました~

「……え? お父様、今なんと仰いましたか?」

 黒い髪の女性――サラサ・ライトブルが、テーブルを挟んで座る両親に尋ね返した。二人は顔を見合わせると、少しためらいがちに父親――アントン・ライトブルが口を開く。

「ついさっき、ヒルトン商会の一人息子、つまりお前の従兄にあたるレイ・ヒルトンと婚姻を結んできた……両家の親が代理でな」
「ど、どういうことですか⁉︎ ヒルトン商会と私たちのライトブル商会は、昔から仲が悪かったじゃないですか! あの家の息子とは付き合うなと、お父様も散々仰って――」
「仕方なかったのだ! 我がライトブル商会は、深刻な経営難に陥っている。このままだと、屋敷まで売らなければならなくなる! だが私の母――つまりお前の祖母であるマーガレットの遺言に書かれていたのだ。ヒルトン商会の一人息子とお前を結婚させたら、遺産のありかを示すヒントを与えるとな」

 白髪混じりの頭を揺らし、父親が俯く。
 母も大きくため息をついた。

 サラサは、ライトブル商会の一人娘だ。
 全盛期はこの国に沢山支店をもっていたライトブル商会だが、現在は他の商会たちの勢いに押され経営難に陥っている。

 両親が日々の経営に頭を悩ませていたのは知っていた。

 大変な状況のライトブル商会だが、決して負けられない商会があった。
 それが父アントンの弟である、サムス・ヒルトンが経営するヒルトン商会。婿養子に入った先の家が商会をもっており、継いだ形となる。

 父と叔父は、理由は分からないが昔からとても仲が悪かった。偶然にも、ともに商会経営者になってからは互いをライバル視するようになり、サラサも幼いころから叔父やサラサと同じ歳の一人息子――レイ・ヒルトンの悪口を散々聞かされてきた。

(それなのに……マーガレットお婆様は何を考えているの⁉ レイと私を結婚させろなんて……)

 俯くと黒髪が頬に流れ落ち、サラサの表情を隠す。

 先日亡くなったマーガレット・ライトブルは、国でも有名な魔女だ。
 真っ赤な髪がトレードマークで、≪赤の大魔女≫という二つ名で呼ばれていた。あらゆる事象を操り、自国だけでなく他国からも頼りにされていたが、息子たちの不仲はどうにもできなかったらしい。

”はぁ……全くお前たちの父親は……これはあたしが、何とかしなきゃいけないねぇ……可愛い孫たちのために……”

 お見舞いに来たサラサをベッドの上で迎えながら、いつも口癖のようにぼやいていたのを思い出す。

 ちなみにマーガレットの遺産、とは、彼女が生前様々な依頼や冒険を経て得た財宝のことだ。しかし彼女が亡くなった時に確認したのだがどこにもなく、恐らく生前に様々な施設に寄付して無くなったのだと結論付けられていた。

 その矢先に、例の遺言である。
 サラサは思わず声を荒げた。激しい怒りが沸き上がる。

「昔、お父様と叔父様が不仲だと知らず、レイと仲良く話していただけで、あんなやつと口を聞くなと怒鳴り散らしたのはどなたでしたか? ずっとヒルトン商会の悪口を聞かされてきたというのに、今になって、レイと結婚しろなど勝手すぎませんか⁉」

 父親が黙って頭を下げた。
 それが、答えだった。

 家のために、
 祖母がもっている遺産を得るために、

 いがみ合っていたレイと結婚しろと。
 いや、

「結婚しろではない。もうお前たちは、法的に夫婦なのだ。だから――」

 父親の顔が、今まで以上に渋いものへと変わる。

 嫌な予感がした。
 そして予感は、的中する。

 続きを言えない父に変わり、母が口を開いた。

「今からあなたには、マーガレットお婆様が用意した部屋で、レイと子作りをしてもらいます」

 *

 身を清めたサラサは、真新しい寝衣を着て、広いベッドの上に座っていた。
 あれから両親に、祖母マーガレットの屋敷に連れて来られ、とある部屋に閉じ込められたのだ。

「この部屋は、お前たちが本当の夫婦となった時、扉が開くように魔法がかけられている」

 本当の夫婦、とは、まあそういうことだ。
 きちんと二人が初夜を過ごせば自由に出入りできるようになり、さらにマーガレットの遺産の手がかりが示されるのだという。

 部屋はシンプルなゲストルームだ。

 ちらっと扉に視線を向けると、確かに魔法がかかっていた。大魔女の血を引くサラサにも魔法の才能はあるのだが、マーガレットに敵うわけがなくため息をつく。出入り口とは反対側に、浴槽へと続く扉が見える。

 テーブルの上には、食料が置いてあった。
 確か話によると、三日分だったはず。

 つまり、

”三日の間に心を決めろ、っていうわけね”

 サラサはうなだれた。

 幼いころ、レイ・ヒルトンと初めて出会った時のことを思い出す。

 確か、サラサが六歳ぐらい。何かのパーティーに連れて行って貰った時だったはず。

 彼は、大人しいサラサにはない快活さをもっていた。好奇心旺盛な瞳で周囲の大人たちに臆することなく話しかけ、新しい発見に対し常に瞳を輝かせていた。そんな純粋な少年の姿を、大人たち皆が微笑ましく見守っていた。

 居ても分からないぐらいの存在感しかないサラサにとって、レイの輝きは、純粋さは眩しかった。

(確か話しかけてくれたのも、レイからだったわ)
 
 正直、嬉しかった。

”サラサの髪……すっごく綺麗だよな! 真っ赤な花が咲いているみたい!”

 祖母譲りの赤い髪がコンプレックスだったサラサにとって、彼の裏表ない賛辞は恥ずかしかったが、嬉しくもあった。

”またいっぱい喋ろうな!”

 満面の笑顔を浮かべながら、別れ際に手を振ってくれたことを思い出す。
 
 だが家に帰ると、

 ”レイは、ライトブル商会の……いや、お前の敵だ! もう二度と、あいつと仲良くするな‼”

 酷い剣幕で父親に怒られたのだ。
 今思い出しても、恐怖で足が竦む。

 恐らく、レイも同じように叔父から怒られたのだろう。
 次、彼と再会した時、話しかけられるどころか、まるで敵を見る目で睨まれ、心が委縮した。

 その時から、コンプレックスだった赤い髪を魔法で黒く染め、サラサはもっと内気な娘になってしまった。

 十歳~十六歳の間、裕福な家の子どもたちは国が運営する学園に通う。

 サラサも例に漏れず入学したが、異性の友人は作らず、休み時間も教室の隅で静かに本を読む、という過ごし方をしていた。

 前髪を伸ばし、表情を隠す彼女を、根暗だと嘲笑う者たちがいることを知っている。だがサラサにとっては、静かな時間を邪魔されなければそれで良かった。

 だがいつごろからか、同じ学園に入学したレイが、サラサの静かな時間を邪魔するようになった。何かと彼女に絡み、ヒルトン商会や自身の武勇伝を自慢して来る。

 サラサは、レイと仲良くするな、という親の言葉に従い、そっけない態度で接し、相手にしていなかったが。

 でも、今は静かなものだ。

 最近はサラサの姿を見つけると、気づかないふりをして通り過ぎる。もちろん、煩い自慢話もしてこない。

 静かになったのは良かったが、手のひらを返したような態度に何故か腹が立った。

(それなのに、彼と夫婦になったなんて……)

 そう思った時、

「ま、待て! 親父!」

 扉が開くと同時に、部屋に半分突き飛ばされる形で茶色い髪の青年が転がって来た。

 レイ・ヒルトンだ。
 彼は慌てて身体を起こし扉に駆け寄ったが、無情にも閉じられた後。

 サラサの耳に、魔法による施錠音が聞こえる。

 恐らく花婿が部屋にやって来たことによって、一定の条件を満たさなければ扉が開かない魔法が発動したのだろう。

 レイには、扉にかけられた魔法が見えていないらしい。
 剣術部に所属し、何度も大きな大会で優勝している鍛えられた腕で力一杯閉じられた扉を叩いている。

「その扉には、お婆様の魔法がかかっているわ。あなたの馬鹿力でも、開けることは不可能よ」
「あっ?」

 低い声でレイが振り向く。
 日に焼けた肌が目に飛び込んできた。幼いころに会った時は細くサラサよりも小さかったが、十六歳になった今では背も抜かされ、すっかり男らしい身体つきになっている。

 彫りの深い容貌は整っており、学園中の女生徒が彼を狙っていると言っても過言ではないほど人気があった。

 学園一のモテ男、テネシー・クライアンと競う位に。

 レイは乱れた髪をくしゃっと掴むと、ボリボリとかきながら近寄ってきた。そして腹ただしい気持ちを発散するようにベッドに勢いよく座ると、軽いサラサの身体がポヨンと跳ねた。

 男を誘うような薄い寝衣を見られたくなくて、サラサはレイに背中を向ける。
 彼女の後ろから、大きなため息が聞こえた。

「何か……大変なことになったな」
「そうね」

 気まずい空気をなんとかしようとレイが話しかけてきたが、そっけなく頷くだけのサラサ。会話はそれ以上続くことなく、沈黙が場を支配する。

 ちらっと窓を見ると、カーテンの隙間から覗く空は闇に包まれていた。

「もう今日は寝ましょう。三日分の食料はあるし、明日また脱出する方法を考えたらいいわ」
「そう……だな。なら適当に枕をくれ。俺は床で寝る」

 ベッドの沈みが無くなった。レイが立ち上がり、床に寝転がったからだ。

 部屋にはベッドとテーブルはあるが、椅子やソファーはない。この時期はまだ寒いし、彼が憎きライバル商会の息子だとは言え、床に寝かせて何も感じないほど、サラサも良心を捨ててはいない。

 それに、

(私に……気を使ってくれたの?)

 何故か少しだけ嬉しかった。
 わざとらしく大きく息を吐き出すと、仕方がない感を出しながらレイに提案する。

「広いベッドなんだから……両端に分かれて寝ればいいでしょ?」
「い、いいのか?」
「そんな冷たい床であなたを寝させて風邪でも引かせたら、あなたの取り巻きが大騒ぎするわ」

 憎まれ口を叩きながら、クッションや枕をベッドの中央に並べて仕切りを作ると、サラサは壁側に身体を横たえレイに背中を向けた。
 彼の視線を感じるが、しばらくすると、

「……悪いな」

 ためらいがちな礼とともに、ベッドが沈んだ。ちらっと振り返ると、レイもサラサと同じように背中合わせになるように横になっている。

 寝よう、と言ったが、やはり後ろに異性がいると思うと気持ちが昂って眠気がこない。それは、相手も同じだった。

「あのさ……何か、悪かったな。俺の親父のせいでこんなことに……」

 自慢話をしてきたレイと同一人物とは思えない程、弱々しい声。

 きっと彼も、サラサと突然夫婦にされたことを、戸惑っているのだろう。不安な気持ちが、彼を弱気にさせているのだと結論付けると、自分は強くあろうとわざと声色を明るくする。

「それはあなたも一緒でしょ? うちの商会、経営難でお金が欲しかったの。だからと言って、マーガレットお婆様の遺産欲しさに、こんな馬鹿げた遺言に従うなんて……」
「うちも同じさ。色々あって。まとまった金が欲しかったんだとよ」
「ふーん、そうなの。少し前まで、自分のところの商会では、貴族や王家と繋がりがあるって自慢してたのはどこの誰?」
「べ、別に嘘じゃない! つい先日は、隣国との取引も決まったんだぞ?」
「ふふっ、ほんと?」
「疑うのかよっ!」

 もちろん疑ってなどいない。

 だが、いつもサラサをからかってくるレイが、子どものように噛みついてくる姿が面白かった。それに久しぶりに彼と交わした会話が、何故か楽しかった。

 小さく肩を震わせる彼女に、気持ちを落ち着けたレイが不思議そうに首を傾げる。

「……お前、いつもと違うな。学園だったら、ほとんど反論してこないだろ? ふーん、とか、ああそう、とかしか言ってくれないのに」
「当たり前でしょ? お父様から、あなたと話すなって言われてたし。それにあなたと話していると、取り巻きの女の子たちに、どんな目に遭わされるか……人気者は辛いわね?」

 最後の言葉は、嫌味だ。

 レイと従兄だ、というだけで、サラサは彼に好意を寄せる女たちから嫌がらせを受けることがあった。呼び出され、関係を問い詰められたこともある。
 
 だから極力、彼との接触は控えていたのだ。

 レイから返って来たのは、驚きだった。彼の言葉が、真剣なものへと変わる。サラサが嫌がらせを受けていたことは、知らなかったようだ。

「ま、待てよ……お前、俺のせいで何かされていたのか?」
「別にあなたが気にすることじゃないわ。みんな小さなことだったし」
「小さなことって……やっぱり何かされてたんだな⁉ 何を――」
「もういいから!」

 サラサの声色の強さに、レイが息を飲んだ。ショックを受けているようだが、気づかないふりをして言葉を続ける。

「私たちは……いがみ合っていた関係でしょ? 別にいいじゃない。私に何があろうと、あなたには関係ないわ」
「わ、悪かった……そう……だよな。だってお前には……テネシーという恋人がいるもんな。俺が謝りたかったのは……お前に恋人がいるのに、俺と夫婦にされてしまったことだ」

 テネシーという名に、サラサの身体が強張った。

 心臓が跳ね上がり、呼吸が苦しくなる。
 手の先から血の気がなくなり、全身が冷たくなっていく。

 呼吸が荒くなり、いつの間にか肩で息をしていた。額から変な汗が流れ落ちる。

 サラサの異変に気づいたレイが、近づいて来た。
 手を伸ばし細い肩に触れた瞬間、彼女の身体が大きく跳ね上がった。ひぃっと甲高い悲鳴が洩れる。

「ど、どうした? 顔が真っ青だぞ? あ、いや、どうしたじゃないよな? お前の気持ちを思えば、もっともな反応だ」

 振り向くと、こちらを心配そうに見下ろしているレイがいた。自信で満ちている表情は暗く、眉の間に深い皺が寄っている。

 レイが終始暗かったのは、恋人がいる彼女と自分が夫婦になるはめになった罪悪感から来るものだった。

 見当違いだと、サラサは大きく首を横に振る。

「違うわ。テネシーは……私の恋人じゃない」
「え? で、でもこの間告白されてただろ?」
「ええ、そうね。でも……断ったの」

 動悸が酷い。口の中もカラカラだ。

 先日サラサは、学園一のモテ男と言われるテネシー・クライアンに公衆の面前で告白された。

 あの場にはレイもおり、テネシーの背後から彼女を見つめていたが、すぐさまサラサから視線を外すと、どこかに行ってしまった記憶がある。

 テネシーへの返答は待って貰った。
 彼のことを全く知らなかったし、何故かこの場で答えるのを躊躇したからだ。

 しかし数日後、サラサはテネシーと彼の取り巻きの女生徒たちとの会話を盗み聞きしてしまう。

「テネシーが私に告白したのは、罰ゲームだったんですって。だから断ったの。あ、もちろん、罰ゲームの件は伏せておいたんだけど、地味な私が断ったことが、彼のプライドを傷つけたみたい。だから向こうから、罰ゲームだって言って来たわ。まあ当たり前よね? こんな地味でつまらない女、誰も好き好んで告白しようなんて思わないでしょ?」

 一瞬でも、本気で返事を考えたことを思い出し、自虐的に笑った。笑いながら、膝を抱えて丸くなる。
 その時、

「お前は、地味でつまらねえ女じゃねぇよっ‼」

 怒りに満ちた叫び声が、部屋に響き渡った。
 何故彼が怒るのかが分からず、サラサは首を傾げて尋ねる。

「敵である私に同情してるの?」
「同情じゃねぇ。テネシーに滅茶苦茶怒りを感じてるだけだ! あの野郎……」
「でも、あなたもその一端を担っているのよ?」
「ど、どういうことだ⁉」

 怒りから一転、激しい動揺が声色から伝わってくる。
 本当は、言うべきではないと分かっている。しかし、伝えずにはいられなかった。

「その罰ゲームを提案したのが、あなたのことを好きな取り巻きの一人だから。あなたがいつも私に絡んでいるから、鬱陶しかったんですって」
「……そんな、俺の……せい? お前を傷つけた元凶は……俺……だったのか?」
「だからもう、私とは関わらないで。私は……卒業までの残り少ない学園生活を、静かに過ごしたいの」
「わる……かった」
「いいえ……私もごめんなさい。あなたが悪いわけじゃないのに……」

 サラサは微笑むと、レイに背を向けた。
 胸が苦しかった。だけど、

(ここまで言えば……レイだってもう私に近づかない。私だって――)

 彼が傍に来ると、心が乱れた。
 話しかけられると、動悸が止まらなかった。
 大好きな静けさが破られた苛立ちと一緒に、何故かそれを楽しむ矛盾した気持ちを持つ自分が大嫌いだった。

 幼いころからの父の呪縛が、サラサの心を縛り付ける。

 ”レイは、ライトブル商会の……いや、お前の敵だ! もう二度と、あいつと仲良くするな‼”

 怒り狂う父親の表情と、満面の笑みで手を振ってくれた幼いレイから向けられた憎しみが思い出され、鳩尾辺りがキュッと締めつけられる。
 自分がレイに抱く想いは、悪いものなのだと言い聞かせる。

 その時、温かさが背中を包み込んだ。敷き詰めた枕の一部が跳ね除けられ、レイの身体の一部がサラサのスペースに侵入している。

「本当に悪かった……本当に……だけど、さらにお前に迷惑を掛けようとしている俺を許してくれ」

 細い肩に回された太い腕に、力がこもる。
 サラサの背中に彼の胸板が密着し、熱いほどの体温を伝えてくる。

 レイの言葉が彼女の耳の奥を震わせた。

「お前が好きだ、サラサ」

 *

 レイの言っている意味が分からなかった。
 何故そんな発言に至った理由も理解できない。

「ははっ、分かるよ、お前の気持ちが手に取るように。だって今まで俺たちはいがみ合ってた関係だもんな」

 乾いた笑い声が響くと同時に、レイの身体が離れた。代わりに肩を掴まれ、向き合うように体勢を変えられてしまう。彼の青い瞳が、サラサの赤い瞳とぶつかった。幼いころに出会った時と同じ、純粋な輝きが彼女を見つめている。

「初めてサラサと出会った時のこと、今でも思い出せる。周囲に大人しかいなかったから、同じ年ごろの女の子がいて嬉しかったっけな。それにその髪」
「髪?」
「ああ。今は黒いけど、染めてるのか?」
「魔法で色を変えているの。だって……凄く目立つから」

 シーツの上に流れた黒髪を一房手に取ると、レイが残念そうに呟く。

「勿体ない。あれだけ綺麗な赤毛なのに。初めてお前に会った時な、あの綺麗な髪と赤い瞳に魅せられた。俺と変わらない歳なのに凄く落ち着いてて大人びてて、とても綺麗でさ……ははっ、まだ恋のコの字も知らないガキンチョだったくせに、笑っちゃうよな!」

 彼の瞳が懐かしそうに細められる。

「だけどパーティーの後、親父にすっごい怒られてさ。まああの時はガキだったから、素直に親父の言うことを聞いてお前と仲良くできなかった。それに次に会った時、お前が凄く怯えた表情で俺を見てて……凄くショックだったよ。けど……ずっと忘れられなかった。お前と仲良く話したあの日のことを――」

 憎き商売敵の一人娘だと言われ、仲良くするな、あいつは敵だ、ろくでもない女だ、と父親に言われ続けたレイだったが、成長するにつれて疑問へと変わっていった。

 サラサ・ライトブルは、父親が言うような酷い女なのかと。

 だが、どれだけサラサを観察しても、物静かで思慮深い面しか見られない。それどころか、無性に言葉を交わしたい衝動に駆られてしまう。

 父親の言葉と、自分の気持ちに板挟みになったレイは、とうとうこんな屁理屈をこねてサラサに近づくことにした。

「仲が良いように見られなければ、話してもいいんじゃないかってな」
「だから、自慢話とかしてきたの?」
「まあ……な。今思えば、俺のことを凄いって思って欲しいっていう下心もあったんだけど」

 ははっと乾いた笑いを上げるレイ。その表情には、恥ずかしさが滲んでいた。しかし、すぐさま少しトーンを落とした暗い声色で言葉を続ける。

「お前がテネシーに告白されているのを見た時、やっと気づいたんだ。初めて会った時から今までずっと、サラサのことが好きだったんだって……目の前で好きな女がかっさらわれた瞬間に自分の本心に気づくなんて、ほんと馬鹿だよな」

 テネシーに告白されたサラサを見たレイは、結果を見るのに耐えられず、逃げ出した。

 相手は学園一モテる男だ。
 サラサも喜んでOKを出したのだと。

 だから彼女に絡まなくなったのだ。

(そう……だったのね……)

 今まで自分の静かな時間をかき回してきた男が急に大人しくなり、怒りを感じつつも気になっていたことに答えが得られ、サラサは何故かホッとしていた。

 安堵したのは、レイも一緒だった。

「でもさっき、テネシーの告白を断ったと聞いた時、今絶対に想いを伝えないと駄目だって思ったんだ。例え……お前が俺のことを拒絶しても」
「……馬鹿ね」

 そう言いながら、彼女の心は言葉とは真逆の反応を見せていた。

(私……嬉しいの? レイから告白されて喜んでるの?)

 疑問形で自分の心に問うが、答えは身体の変化に現れた。

 胸の奥が熱くなったかと思うと、その熱が瞳に集中する。熱を帯びる目頭を押さえると、指先が濡れた。 

 何故、レイと結婚したと言われた時、両親に対して怒りが湧いたのか。

 あの時は、金のために娘を売ったからだと思ったが、多分違う。

 悔しかったのだ。

 今までレイとの交流を禁じ、縛り付けていた父親の態度が突然変わったことが。
 彼と話すことが楽しみだったサラサの気持ちを、踏みにじったことが。

 彼女に向けられたレイの満面の笑顔を奪ったことが。

(私は……レイともっと話したかった……もっと仲良くしたかった! それなのに……それなのにっ‼)

 湧き上がる怒りが、サラサの心の奥にしまい込んでいた気持ちを暴いていく。
 父親に怒鳴られた恐怖によって蓋をした反発心が、十年の月日を経て鮮明に思い出される。

 静かな時間を邪魔されたくないと思いながらも、レイを拒絶できなかった本当の理由に気づく。

 初めて出会った時、レイがサラサに魅せられたように、サラサも――

「私も……」
「え?」

 掠れたサラサの声に、レイが反応する。
 耳を寄せ、彼女が洩らした言葉を一言たりとも逃すまいと近づいた。
 
 枕で作られた仕切りの一部は崩れていた。だが次の瞬間、全て崩れ去ってしまう。

 サラサが自らの意思で仕切りを超え、レイの首に抱き着いたからだ。首筋に顔を埋めながら、消えてしまいそうな声色で囁く。

「私も……ずっとあなたが好き……だったんだと思う。初めて会った時からずっと……」

 彼の瞳が見開かれる。

 青い瞳にサラサの姿を映し出しながらキラキラと輝くと、細い身体を抱きしめた。初めて出会った時と同じ純粋な笑顔が――サラサが好きになった彼の姿が、腕の中にあった。

「私も……馬鹿ね。あなたに言われて初めて、自分の気持ちに気づくなんて……」
「いいんだ。お前だって親父たちの言葉に縛られてたんだろ? 俺も同じだったから分かる。父親同士の仲が悪いからって、子どもまでいがみ合う理由なんてこれっぽっちもないのにな。俺やお前が、一体何したっていうんだよ」
「まあ、私はあなたの取り巻きから嫌がらせされたけど」
「そ、それは悪かったよ! もう二度と、そんなことはさせない。絶対だ‼」

 慌てて謝罪するレイ。
 ちょっとした揶揄いのつもりだったため、本気で頭を下げる彼の反応に、逆にサラサが驚いてしまう。

「あっ、そ、そんなに真剣に謝らないで! 別に恨みがあるわけじゃ……」
「いや、俺自身が許せないんだ! くっそ、テネシーの野郎……どうやって絞めてやろうか……」

 物騒なことを口にするレイを、サラサは慌ててなだめた。
 彼女の必死の言葉により、レイは溜飲を下げ大きく息を吐く。

「でもまあ……アイツがお前に告白したから、俺も気持ちに気づいたようなもんだしな。締めるのは勘弁してやるけど、別の方法で思い知らせてやる! 俺のサラサを傷つけた罰は、絶対に受けて貰うからな!」

 俺のサラサ、という言葉に、当の本人は頬を赤くした。
 改めて、彼と気持ちが通じ合ったと思うと、嬉しさ以上の恥ずかしさが込み上げてくる。そんな彼女の頬に、レイの手がためらいがちに伸ばされた。柔らかさ、滑らかさを楽しむように、何度も頬を優しく撫でる。

「マーガレット婆ちゃんは、全部知ってたんだろうな、俺たちの気持ちを……だからあんな無茶な遺言を残したんだな」
「そう……かもね」

 マーガレットはいつもサラサに、レイのことを聞いていた。そっけなくレイの様子を伝えるといつも、

”まったく……こっちも重症だねぇ……あたしが一肌脱がないとどうにもならないねぇ”

と呆れたように決まってこの言葉を口にしていた。
 実はレイも同じことを言われていたらしい。

 あの時は、何のことを意味しているのか分からなかったが、今なら理解できる。

 二人は顔を見合わせると、小さく笑い合った。
 そしてチラッと閉ざされた扉に視線を向ける。

「サラサ。あの扉、お前の力で何とか開けられるものか?」
「……無理ね。さすがに大魔女であったお婆様の力には勝てないわ」
「そうか。なら仕方ないな」
「……え? ちょ、ちょっとレイ? きゃぁっ‼」

 サラサの悲鳴が響き渡った。
 見上げた視線が、レイとぶつかる。彼がサラサを押し倒し、上に覆いかぶさったからだ。
 彼の口元が意地悪く緩む。

「なら、正攻法で脱出するしかないだろ」
「せ、正攻法って、ちょ、ちょっと待って!」

 慌てて声を張り上げるが、レイはそれには答えず、サラサの黒い髪を一房すくい上げた。

「お前の髪、元に戻してくれないか? 見たいんだ、俺が魅せられた、あの綺麗な赤を……」

 熱のある視線を向けられ、サラサの顔が真っ赤になった。
 今でも、自分の髪色はコンプレックスだ。

 だけどレイが望むなら、
 彼が綺麗だと言ってくれるなら、

 晒してもいいと思った。

 赤い瞳を伏せると、小さく言霊を唱える。

 サラサの髪が輝きを放った瞬間、黒に染まっていた長い髪が、見事なまでの艶のある赤毛へと変わっていた。まるで真っ赤な花弁を開いたかのように、ベッドに広がっている。

 幼いレイが、真っ赤な花が咲いている、と表現したように。

 ああ、と低い感嘆の声が聞こえた。

「綺麗だ、サラサ。やっと見られた、本当のお前を……」

 すっと赤く長い前髪をかきあげると、少し緩んだ赤い瞳で彼を見上げるサラサの顔が現れた。その表情には、戸惑いがある。

「待って、レイ……心の準備がまだ……」
「随分待った、いや、待たされた。なのにまだ待てって言うのか? それに俺は、部屋を出られないとか関係なく、今ここで、お前が欲しい。誰かに奪われる前に、全部俺のものにしたい。だって――」

 言葉が途切れ、彼の唇が耳たぶを這った。ぞくっとする感覚が背中を走り、サラサの肩から首筋にかけてピクンと跳ね上がる。
 薄く開いた唇から思わず洩れた声色は、自分ではないような甘さを含んでいた。

 少し離れた彼の唇が、熱い吐息が、サラサの髪を揺らす。

「まだ俺たちが、法や紙上だけの夫婦だなんて、不安すぎるだろ?」

 次の瞬間、唇に温かいものが乗った。
 サラサは瞳を閉じると、熱に浮かされるがまま、彼の唇を受け入れる。

 抵抗する力は、どこにも残されていなかった。

 *

 二人は食料が尽きる三日間、ともに過ごした。
 扉にかけられた魔法はとっくに解除されていたが、

「今まで、親父たちに散々振り回されてきたんだ。出てこないと心配かけても、罰はあたんないだろ」

というレイの言葉によって、ギリギリまで部屋に留まっていたのだ。

 短くも濃厚な三日間を過ごし部屋を出ると、目の前には、

「サラサ、レイ! 本当に……本当にすまなかった!」

 二人の前で土下座する両父親の姿があった。
 
 突然の光景に、言葉が出ない。それは隣にいるレイも同じようだ。
 
 その時、ふわりと部屋の空気が動いた。
 サラサの母親――カレン・ライトブルとレイの母親――ニーシャ・ヒルトンが立ち上がり、二人の前にやって来たのだ。

 自分たちの前に立つ母親同士の間に流れる空気感が、部屋に入る前とどこか違う。
 二人の距離感が近いというか。
 
 気のせいかもしれず、どう話題に振れればいいのか戸惑っていたサラサだったが、カレンはレイの母親ニーシャに目配せすると微笑んだ。

「あなたたちが部屋に閉じ込められている間に、ニーシャさんとたくさんお話をさせて頂いたのです。とっても良い方でしたわ」
「ええ、私も同じことを思いました。こんな良い方が、お父様の言うような酷い方だなんて思えないって。そこで気づいたわ。私たち家族は、お父様たちのイザコザに巻き込まれていただけなのだと……あなたたち含めてね」

 それを聞き、両父親はバツが悪そうに口元を歪めた。

 どうやら、サラサたちが部屋にいる間、母親たちが結託し、父親たちを責めたてたのだという。それはもう、今まで見たことのない剣幕で詰め寄り、お互いが何故仲たがいしたのか、きっかけを聞きだしたのだ。

「で、仲たがいしたきっかけは何だったんだ?」

 レイが尋ねると、二人の母親は呆れたようにため息をついた。サラサの母に至っては、眩暈がしたのか額に手を当てている。

「……俺が、サムスの限定菓子を食べたんだ」
「……え?」
「だが俺がどれだけ謝っても、サムスは絶対に許さなかった。だからつい俺も意地を張ってしまって……」
「そ、それが仲たがいの原因……ですか、お父様、叔父様?」

 両父親は、黙ってサラサの問いに頷いた。

 あまりにもくだらなさ過ぎる理由に、サラサは膝から崩れ落ちそうになった。慌ててレイが身体を支えると、まだ二人の前で頭を下げている両父親に怒りをぶつける。

「くっだらねぇ理由で、俺たちを散々振り回して! 俺もサラサも、今まで十年間、どんな気持ちで過ごしてきたか分かってんのか、クソ親父っ‼」
「そ、それは本当に申し訳なく思ってる! 今思えば、俺たちもなんであんなくだらない理由でいがみ合っていたのか、不思議なくらいだ! お前たちには迷惑をかけた。全部が終わって今さらだが、離縁して貰ってもいい! サラサちゃんには、ヒルトンの名に懸けて、良い縁談を用意する! 本当に済まなかった」
「……はぁ? サラサと離縁して、他の結婚相手を紹介する……だ……と? ふざけんなよっ‼」

 ブチ切れたレイの怒声が響き渡る。が、父親たちは、無理やり結婚させたことを彼が怒っていると勘違いしているようだった。

 サラサはへたり込みそうになった身体に活を入れると、レイに怒られて小さくなっている父親たちと視線を同じにした。

「お父様、叔父様。私は、離縁などいたしません。私は彼が……好きなのです。だからこのまま夫婦としてともにいることを、お許し頂けませんか?」

 彼女の静かながらも、優しい声色に、父親たちは目を見開いた。そしてサラサの言葉が真実か問うように、ふて腐れているレイに視線を向ける。
 彼は、唇を尖らせると、ああもうっ、と苛立ちの声を上げて茶色い髪をかきむしった。

「ああ、そうだよ。俺たちは、ずっと互いが好きだったんだ! でも親父たちのせいで、自分の気持ちに正直になれなかったんだよ! だから勝手に離縁させようなんてすんなっ‼」

 そう言って、姿勢を低くしているサラサの身体を引き寄せると、ギュッと抱きしめた。

「やっと……やっと気持ちが通じ合ったんだ。十年間、ずっと待ったんだ……もう二度と、離すかよ」

 切なそうに声を震わせ、レイが抱きしめる腕に力を込めた。

 両親の前で抱きしめられ、恥ずかしい気持ちで一杯だったサラサだったが、レイの言葉から感じる想いに、胸がいっぱいになる。
 そっと瞳を閉じ、彼の肩に顔を寄せる形で身体を預けた。

 寄り添う二人を見て、両父親はポカンとしていた。が、互いに顔を見合わせると、

「悪かったな、サムス……」
「いや、俺だって意地を張ってたんだ。兄貴が謝ることじゃない」

 心の底から謝罪しあった。
 こうしてようやく両家の長年の確執は解消されたのだった。

 そして今、皆の姿は祖母マーガレットの寝室にあった。
 なんでもあの部屋を出た花嫁は、遺産のありかを示すヒントが見える特別な目が与えられているらしい。

「何か見えるか、サラサ?」

 父親に問われ、部屋を見回した。
 ベッドが視界に映ると、生前、マーガレットが微笑みながら彼女を迎えてくれたことを思い出す。
 
 その時、目線の先にキラリと光るものが見えた。

「あれは……」
 
 本棚に立てられている一冊の本が光っている。皆がサラサの視線の先を追うが、不思議そうに小首を傾げている。どうやら遺言通り、見えているのは花嫁だけのようだ。

 小さな光を宿す本を手に取りページを開くと、一枚の紙が落ちて来た。

 亡きマーガレットからの手紙だった。

「……ええっと、

『私の残した遺産は、あなたたち《家族》です。

 皆の力を一つにしなさい。
 互いを信頼し力を合わせなさい。

 家族の愛は、どんな困難にも打ち勝つことのできる素晴らしい魔法なのだから。

 ――私の愛した家族たちへ』

 ですって」

 血を分けた息子とその伴侶。
 彼らの愛から産まれた孫たち。

 それが大魔女マーガレットが残した遺産――
 
 しばらく沈黙が流れた。
 が、

「あはっ……あははははっ‼ くっそ、かーちゃんらしいな!」
「ほんとだな、兄貴! でも……そうだよな。もし母さんが本当に遺産を残していたとしても、俺たちがいがみ合っていたら、結局争いごとが増えただけで、何の解決にもなってなかっただろうしな」
「力を貸してくれるか、サムス?」
「もちろんだ、兄貴。一緒に商会を立て直そう! 一人じゃ無理でも、力を合わせれば何とかなるさ!」

 今までの不仲などなかったように、笑い合いながら協力を誓う父親たち。

 そんな彼らを、他の家族たちは非常に呆れた表情を浮かべて見つめていた。しかし、カレンが小さく噴き出すと、それにつられてニーシャが笑いだした。

 急速に距離を縮める両親たちを微笑ましく見つめながら、サラサはマーガレットのベッドに視線を向けた。

(ありがとう、お婆様……いがみ合っていた家族を一つにしてくれて……レイへの気持ちを、気づかせてくれて……)

 記憶の中の祖母が、彼女に向かって満面の笑みを浮かべた。まるで、

”幸せにおなり”

 そう言っているように。
 心が温かくなり、もう一度手紙に視線を向けた時、

(え?)

 目にしたものに、軽く息を飲んだ。
 彼女の異変に気づいたレイが、眉をしかめ尋ねる。

「どうした、サラサ? もしかすると体調が良くない? ここ三日間、俺がずっと離さなかったから――」
「ち、違うってばっ‼」

 顔を真っ赤にしてサラサは否定する。
 もうっ、と呟くと、プイっとレイから視線を反らしたが、握り合った手から伝わる温もりが、彼女の恥ずかしさを、先ほど目に入ったものに対する疑問を塗り替えていく。

 胸の奥が詰まって苦しくなるほどの、幸せへと――

 *

 程なくしてライトブル商会とヒルトン商会は合併した。

 学園を卒業したレイとサラサも商会に迎え、家族一丸となって立て直しに尽力した結果、全盛期以上の活気を取り戻し、この国で名を知らない者がいないほどの商会へと発展した。

 ちなみに例の部屋から出たサラサは、自分の姿を隠すことを止めた。彼と並び立つのに、今までの地味な恰好では恥ずかしいと思ったからだ。

 元々美しい容姿を持ちながらも、暗く目立たないようにしていたため、彼女の変貌は最早別人だと思われるほどだった。

 学園一のモテ男、罰ゲームで告白してきたテネシーが、根暗なサラサだと気づかずに一目惚れし、公衆の面前で告白してくるほどに。

「これも罰ゲームなの、テネシー? あなたの遊びに何度も付き合う程、私は暇を持て余していないのだけれど」
「……え? 罰ゲーム? ま、まさか……君はサラサ・ライトブルなのか⁉ でも髪色が……いや、どうでもいい。あ、あれは違うんだ! 本当は俺は君のことが――」

 好きだと続くはずだった言葉は、レイの登場により永遠に失われることとなる。

 サラサの肩を抱き寄せると、相手を射殺さんばかりの鋭い視線を向けながら、レイは唸り声のような低い声で警告した。

「お前……サラサを傷つけたらしいな。今回は見逃してやるが……次同じようなことがあれば、只じゃ置かないからな」
「れ、レイ・ヒルトン⁉ お前には関係ないだろっ、引っ込んでろ‼」 
「はぁ? 関係ない? あるに決まってるだろ。サラサは、俺の妻なんだからな」

 そう言って、おそろいの結婚指輪を見せられたテネシーは、絶望で満ちた表情を浮かべながら膝から崩れ落ちた。本気で好きになった女性に振られたモテ男の哀れな表情は、今でも学園の笑い話となっている。
 
 そして五年後――

「待ちなさい、ルビィ! そこはマーガレットお婆様の寝室でしょっ! 勝手に入っちゃ駄目です!」

 ヨタヨタと歩く一歳の娘を追いかけてマーガレットの寝室にやって来たサラサの声が、大きく響き渡った。

 二人はその後、マーガレットの屋敷を継ぎ、ここで暮らしていた。祖母の部屋も、彼女が亡くなった当時と変わらず綺麗に整えられ、ベッドサイドには季節の花が生けられている。

 妻の声に、何があったのかとレイが顔を出した。

「どうした、サラサ?」
「レイ! ルビィがまた勝手にお婆様の寝室に入ったから怒ったの!」

 部屋に鍵がかけられればいいのだが、何故かルビィが来ると、寝室の扉が勝手に開いてしまうのだ。

 当初は不思議だったのだが、大魔女の魔法が絡んでいるのだから、自分たちの力ではどうしようもない、とあまり深く考えなかった。

 好奇心旺盛な娘が、部屋をウロウロする姿を見つめながら、サラサは大きくため息をついた。

 ふと、五年前の騒動が、そして誰にも伝えなかった手紙の秘密が思い出される。

 実は、マーガレットの手紙には、サラサへのメッセージが書かれていたのだ。

『私の愛する孫、サラサへ。

 きっとあなたとレイの子どもは、とても可愛いでしょうね?
 もしよければ、その子が歩けるぐらいの年齢になったら、この部屋に会いに連れてきて欲しいわ。

 お婆ちゃんは、いつまでもあなたたち家族の幸せを願っています』

 今でも、意味が分からずにいる。

 だけど、サラサにしか見えない隠しメッセージ。きっと誰にも伝えて欲しくないのだろうと思い、黙っていたのだ。

(丁度ルビィも、お婆様が書き残した年齢ぐらいね)

 色々あったな、と娘の成長を感慨深く思っていると、

「あうー、あっ、あっ」
「何だ、ルビィ? 何か見つけたのか?」

 ルビィが本棚の上部を指さしていた。
 気づいたレイが娘を抱き上げると、ルビィは身を乗り出し、一冊の分厚い本に触れる。しかし一歳児が掴むには太すぎる本だ。

「ルビィ、これが欲しいのか? 凄いなぁー、こんな本、お父さんにも分からないぞ?」

 レイが冗談交じりに笑いながら、ルビィが望む本を手に取った。が、思った以上に重かったのか、彼の手から本が滑り落ち、絨毯の上に落ちた。

 キラキラと輝く何かを、まき散らしながら――

「え? こ、これは……」
「宝石? それもこんなにたくさん……」

 分厚い本をくりぬき、中に詰められていたのは大小様々な大きさの宝石だった。

 宝石とともに出てきた紙を手に取り、サラサは笑った。

「私と同じように、ルビィにだけ見える魔法をかけてたのね。ふふっ……お婆様ってほんと、全て御見通しだったのね? 」
「まあ、限定の菓子で長年仲たがいするような親父たちだからな。マーガレット婆ちゃんが遺産相続に慎重になるもの、仕方ないさ」

 苦笑いをしながらレイが呟く。
 手紙には、こう書かれていた。

『この手紙を今あなたたちが読んでいるということは、ひ孫が見つけたということね。
 おめでとう、レイ、サラサ。

 あなたのお父さんたちも、仲良くやっているかしら?
 いえ、きっと仲良くしてるわね。あなたたちの可愛い子どもが、この手紙を見つけたことが、その証拠なのだから。

 家族の愛、という魔法を使いこなしている今のあなたたちになら、これら私の遺産を託すことができるでしょう。

 幸せに生きていくために、正しい使い方をしてください。

 でも、忘れないで。
 本当の遺産は、あなたたちのすぐ傍にあることを』

 <完>